瀬田漕艇倶楽部代表を終えて

竹内英子

瀬田漕艇倶楽部の代表を終えて、そして先日の総会を終えてほっとしているところです。ここしばらく会報への投稿をしなかったのですが、最後は締めくくりとして書いておくことにしました。だいたいが筆不精と最近はHPに掲載されるので余計に考えてしまいますが、倶楽部の皆様にはもっと代表の声を伝えるべきだったと反省しております。

アメリカから3人の子供たちと帰国して来たのがちょうど7年前の3月でした。帰国前から副会長を既に任命されていましたが、母が帰国後10日でクモ膜下出血のために入院、しばらく倶楽部へは頻繁に行けないまま翌年、とうとう渡部会長が戻る日が来て会長代行をすることになりました。以前に副会長とマネジャーをしたことがありますが、今ほど用務がある訳でなくて、ほとんどレース出漕申し込みや中学生のコーチや自分の選手活動を主に活動をしていました。それで一度は倶楽部の運営に関われということと年齢的なことや、また暇だろうと思われたようですね。適任かどうかは不問だったようです。それから早いもので会長3年、NPO法人に変わってから代表理事になって3年が過ぎました。年齢が高くなると月日がこんなに早く過ぎていくのかを実感しています。その頃、中1を頭に小1まで子供が3人いて夫は2年間日本で単身赴任をしていたのですが、すぐにアメリカへ再赴任。その当時は何で私が会長するのだろうと思ったものでした。その子供たちも息子は大学生に上の娘はアメリカの夫の所で高校生活を楽しみ下の娘は中学生に成長しました。何とか日本の生活にも慣れたようで息子は畳に布団を敷いて寝るのが大好きだと言います。子供たちにボートを漕がせるのが私の夢で、3人には水泳を必須スポーツとして課したのですが。。。その子供たちはボートには夢中にはならなかったけれど、それぞれが夢中になれるスポーツを持つことができました。考えてみると夫が元気で単身赴任をしてくれていたおかげと子供たちが自治会の用事なども代わりに行ってくれたり、子供たちのことで心配することもほとんどなかったことが私が週末を倶楽部用務に自由に動けたと思います。アルバイトに来ていただいている粟津さんやいつもお世話になっている隣の奥様からも指摘されました。夫が年に2回帰国したときはボートのことは一切しないで家で賢く主婦業をしていますからね。

さてこの7年間の倶楽部での思い出をたどってみますと、HeadOfTheSETAを瀬田漕艇倶楽部主催にして取り組むようになりました。その後ナショナルチームトライアルを併催することになり、シングルスカルの選手の出漕が毎年増えてきました。私の夢は川岸、唐橋に応援する人々があふれているようなボートレースになればと願っています。日本中のスカーラーが瀬田川で漕ぎたいと思えるレースを10年後、20年後は多分夢を叶えてくれるでしょう。期待しています。また古くなった浮き船台の改修工事を何ヶ月もかかり作成しました。泥だらけになって撤去して、駐車場で組み立てた船台を総会の日に人力で運ぶ。瀬田漕艇倶楽部が誇る人力作戦です。倶楽部の創部時代、この大萱の河川敷に移ってきたときの作業を思い出します。次はNPO法人に変わろうと決意したことでしょうか。倶楽部は人も増えて施設も立派になってきたこともありNPO法人になろうと2年間かけて勉強していただき、やっとのことで箱を作る。その後は皆さんがご存知のことと思います。社会貢献をしようと言っても、電気スイッチのON,OFのようにすぐに変えることはできません。人間は機械ではありません。しかし、人は支えあって生きていると亡くなった夫の父が結婚式で言っていた言葉を思い出す。

「人という字は支えあっているでしょう」私は会員や家族に支えていただきました。重くて支えきれないこともあったことと思います。冬のマシンローイング大会には、いつも三洋電機滋賀事業所の体育館をお借りして3年連続させていただきました。特に前日が大雪の年は翌日の大会のことが気がかりでした。何とか参加者は集まってくれました。私は昨年は8分台で漕げるようになりました。今年は大会を休憩しましたが来年は又違った形で進化した大会が瀬田漕艇倶楽部でできると良いですね。そして、長年無償で借用させていただいた駐車場土地を購入。これは6ヶ月かけてもなかなか寄付は集まらず仕事から帰宅後電話作戦をしていたのですが、私は駄目もとで、こともあろうか地主さんの山本さんに100万円の値引きをお願いしたのです。大根を値切るのと違うのに、主婦は世の中の常識を知らないと思われているでしょう。私の頭の中は100万円÷5万円=20人分がよぎったのです。もうこれ以上無理。この寄付金活動では多くの会員の温かい気持ちをいただきました。賛助会員やボート関係者の温かさをいただきました。そして「瀬田漕艇倶楽部頑張れ!」と期待されているのだと思いました。土地のお金のうち寄付金は3分のⅠで、大半は今までの倶楽部の艇庫積立金で賄ったこと

を知っておいてください。私は倶楽部の今までの会員がアルバイトで積立したお金を土地に替えてしまった代表です。あれはよかった良い決断だと後世に残るでしょうか。でも選択肢はなかったのですが。それは皆様のこれからの頑張りにかかりますね。そして、次はNTT滋賀ボート部が廃部するので艇庫を購入して欲しいとお願いされました。本当はこちらのほうが先に話が来たのですが、駐車場は待てないということで進めたのです。私の在任中で外から見ると瀬田漕艇倶楽部はすごいなあと思われるかも知れません。しかし、実際はしんどかったなあ。でもひとつ誇れるものがある、それは「瀬田漕艇倶楽部はひも付きでない」「居候でもない自立した倶楽部であること」これを守ったのです。でも本音は口を出さなくて我々を支援してくださる法人賛助会員を増やしたい。しかし、その為には我々に魅力がなくては誰も支援してくれません。今までの瀬田漕艇倶楽部の先輩が建てた倶楽部ハウス内外ををぴかぴかにしないと申し訳ないですね。建屋が大きくなり所帯も大きくなると難しいことも多いのですが、それはそれなりに楽しい事も多かった。

私の一番したかった事は初心者スカル教室でした。帰国後、その当時は幹事会と言っていました。幹事会で「初心者教室をしたい!」と言ってもメンバーは「ふーん」と言った具合。私もその当時は全然相手にされず。堀内さんから高谷さんに引き継がれていいスタッフに恵まれて大きく成長しました。この6年間で共有艇、共有オールは飛躍的に増えました。最近入会された方はこの状態が当たり前であると思われるかもしれません。スカル教室が会員のボランティアで運営されていることも長年かかって出来たことです。創部当時は倶楽部のアルバイトの半田つけなどで艇を購入したものです。賞金レースではないけれど勝つことが我々を認めてもらえると必死で練習して勝負にこだわりました。倶楽部自体がハングリーでした。艇やオールの扱いを丁寧にお願いします。スカル教室を始めて6年ほどになりますが、ボートを漕ぎたいと言う人がいることがわかり、またその方々とのふれあいは毎週倶楽部に行く励みになりました。人との出会いは宝ですね。ボートという共通項だけで?がっていて会社や学校とは無関係でそれがいいのかもしれません。先日の総会では、もっと皆で倶楽部の用務を分担しようと言う意見が多くあり、嬉しかった。ここ数週間倶楽部に行くと高校生や大学生が自主的に当番をして倶楽部内を掃除している姿を見て嬉しくなりました。高校生や大学生が出来ることを社会人は社会人ができることを年配者には年配者の出来ることをすればいいし、得意分野のある方はそのことを発揮すればいいと思います。目指していた倶楽部の姿に近づいてきたと思います。私の6年間の代表期間の比ではないほど、艇庫を何回か建設する苦労は相当なエネルギーを使われたことと思います。特にこの新艇庫建設では多くの方のご苦労があったことがそれぞれのファイルを整理していると感じ取れます。そのことを思うと艇庫を日本一のピカピカ艇庫にするのは我々の責務でしょうね。会員皆でしましょう。倶楽部でよく年配者の会員が今の若い者は挨拶をしないと言われるが、一度先に挨拶をするといいのかもしれません。倶楽部は学校ではないし会社でもないのです。先輩、後輩の世界ではないし、もちろん上司、部下の世界でもありません。しかし年上を敬う気持ちは大切です。昨年の大掃除では女子高校生と年配者の方が一緒に花壇の手入れをされている姿は微笑ましかったでした。

いろいろな年代がいてチームがあって理解しあえる倶楽部ライフが楽しいと思える倶楽部になるといいなあ。

倶楽部代表を終えて今少しわかってきたのです。瀬田漕艇倶楽部の創部時代を知っている者として倶楽部の先輩たちは私に倶楽部を託したのだろう。先日、家の片づけをしていると1981年当時の会員名簿が出てきて、その当時は会員60名でした。それから100名増えて、その当時の会員は現在8名ぐらいしか残っていません。絶えず入れ替わりしているのがわかります。それがもしかすると流動的で良かったのではないでしょうか。去るものは追わず入るものは拒まず。私には到底まねのできない27年間創部から変わらぬ思いを持ち続ける会員がおられたからでしょうね。選手としてコーチとして自分にもそれなりの自信はありましたが倶楽部運営は白紙でした。当初は恩返しのつもりで受けた仕事でしたが振り返ってみると、今回もまた私を成長させてくれるものでした。27年前に大学を卒業して滋賀県に戻って瀬田漕艇倶楽部の誕生がなかったら私はボートを続けていなかっただろうし、瀬田中学の創部時代や高校生、大学生の指導もしていなかったと思っています。そして、7年前に倶楽部の代表のポストを用意していただかなかったら、これだけボートをしなかったかも知れません。倶楽部にとっては、私が代表をして進化の進度を遅らせたように感じないことはないのですが、教育は長いスパンで考えていくことを理解してください。これから加速度的に進化する基礎はできたと思っています。課題をいっぱい残しましたので。大きな課題があればあるほど倶楽部がまとまれるのかも知れません。次期理事の皆さんは20代、30代を中心に組織されました。大半の理事は社会人であり仕事を持ちながらの活動になりますが、27年前も同じぐらいの年代が倶楽部を創部したのですから出来ないことはないのです。160名の会員とボートを通じて更に理想の倶楽部にしていってください。できれば昔のように全日本級のレースでチームボートで優勝を出来る倶楽部にしてほしい。エイトならベストですね。オリンピックとは言いませんので、やはり強い瀬田漕艇倶楽部であってほしいとこだわりたい私です。ありがとうございました。

この文書の情報