ドラゴンボート・シニアチャンピオン

古川宗寿

9月17日からの3連休はドラゴン・ボート三昧で過ごしました。というより正確には前日のコース資材準備の半日を含めて3.5日間です。春からの孤独なシングルスカル漕ぎから一挙にエイトを通り越して豪快な22人乗りのドラゴン漕ぎをたっぷり満喫、ドラゴン漕ぎ世界の新鮮さをレポートしてみたいと思います. 国内初めての「200mスプリント大会」のコースブイ・ロープの準備をするために16日(金)13:00に4人がクラブに集合した。今回は第一回大会なので予算があまりとれないとの前提で大会組織委員会からコース設営を受注した。どうせ引き受けるなら満足してもらえるコースを入れようと10m単位のブイが浮かぶ4レーンの資材を準備した。スタートはステッキボートを押領司君が漕艇場から特別に借り受けてくれてボート競技方式と同じにすることになった。思わず、「大会をやるならちゃんとコース予算も取ってほしいよな」との愚痴もこぼれた。

前日の17日(土)は会場の琵琶湖競艇場でコース設置を8人程でやった。場所はいつもの"漕艇"場ではなく、モータボート開催をやっている浜大津の西にある"競艇"場。実は昔、ここで朝日レガッタが開催されていた。大会記録に尾花川コースと書いてあるのはここのことです。戸田コースのスタート付近の風景にそっくりでここの大型スクリーンやスタンドを利用して大会を盛り上げようとする組織委員会の魂胆だ。ボート協会も少しはドラゴン協会に見習ったほうがいい。

コース設営は予想以上に時間がかかったが夕方には終了。私が会社から持ってきた30kgのステッキボート用のアンカ(固定用のイカリ)があまりにも重くてこの作業後、堀切君は胸に傷みを感じて後日病院で診察をうけたら肋骨を骨折していたらしい。でも彼は傷みを感じながら骨折に耐えて2日間のドラゴンレースを漕いだ。「肋骨は簡単に折れるけどすぐに治るよ。アッ、ハッハ!」なんて暴言が行き交っていた。

18日は国内初めての200mスプリントレース、200mがドラゴン・スプリントの国際標準らしい。会場に行く前にクラブ艇庫に立ち寄ってレース後の夕方のバーベキューパーテイーの釜と照明ランプをつけた。ついでに芝刈りもやった。クラブの若い連中は本当に芝刈りも?へたくそで私は何時も文句を言っている・・。「芝くらいチャンと刈れよ!将来、自分ちの芝刈りもろくにできん亭主になるつもりか」 『芝のある家に住める心配はありません』 「もう・・、勝手にしろ!」 芝刈りの講釈は別の機会にたっぷり皆さんに聞かせて参じよう。今回の私は瀬田漕艇クラブではなく、琵琶湖ドラゴンクラブのシニアチームの助っ人で出場だ。チームの先輩達のパドルさばきの鋭さに圧倒されながら必死で漕いだ。所要時間は1分だがローイングよりは片方の一部の筋肉のみ使う感じで体の全エネルギーを試合で完全に放出するのは至難の業のようだ。決勝は大阪の6チームからシニアを集めたベテランばかり(琵琶ドラ・坂井氏談)を相手に先ずは優勝となった。喉は掛け声で嗄れてしまった。

2日目は会場を琵琶湖"漕艇場"に移して1000mレースだ。これも日本初の世界標準距離のレースとのこと。昨日の5倍の距離を漕ぐなんて想像できなくて戦々恐々の予選レースとなった。予選は強力なお姉さんチームに負けて2位だった。聞けば某女子大有名カヌー部の現役とOGチームの河童という日本女子ドラゴン最強チームらしい。決勝でもまたまた、対戦となった。そのスタート前の舌戦の模様を紹介する。

爺チーム:今日は何の日か知っている?

姉さんチーム:敬老の日でしょう。

爺:だったら負けて頂戴。

姉:あかん、負けたらへん。負けても家に帰ってから慰めてもらったらええやんか。はよ帰って孫の守でもしなさい。

この冷たい反応に我が爺チームは燃えに燃えた。「最初から最後までスパートでいくぜ」 なんとゴールでは1艇身の差で逆転優勝だ! 声も身体のエナジーも嗄れ果ててしまって陸に上がっても頭はガンガン痛くて、全員がふらふらだった。

その後の打ち上げ会は欠席者続出。やっぱりドラゴン漕ぎも爺の体には良くないかもしれない。ちょっとは歳を考えろとの声もあるが歳が気になってボートやドラゴンが漕げるもんか。

ここのところ、孤独なスカル漕ぎだったが2日間のレースと焼肉パーテイーで久しぶりに仲間を感じることが出来た。超強力なリーダシップで大会参加選手チームを率いてくださった佐々木、草野の両おねえさんに感謝する。瀬田ローの若い男達も優しいだけでは生きて行けんぞよ・・。少しは教えを請い勉強してほしいものだ(笑)。

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