中井の琵琶湖大橋遠漕

中井賀津雄

〜往路編〜

最近、瀬田漕艇倶楽部では競漕用ボートによる琵琶湖遊覧がひそかなブームだ。若いメンバーが心血を注いで、ナックル艇を整備してくれたおかげで、南湖ミニ周遊の計画が進んでいる。うまくいけば来年、当倶楽部の創設30周年事業で、琵琶湖周遊が実現するだろう。もっとも、我々に先立って、戸田のOB諸氏が、まもなく当倶楽部に集結し、2〜3日かけて「琵琶湖周航の歌」のコースをたどるという。

さらに、何といっても当倶楽部理事・桑野造船社長古川宗寿氏は、瀬田から会社のある堅田まで 17km※1を、スカルでの湖上通勤としゃれこんでいらっしゃる。わたしも、それに触発されて古川氏の湖上通勤におともさせていただくことになった。あたりまえですが、きびだんごはもらえませんけどね。しかし、いきなりでは足手まといになるだけなので、事前リハーサルを途中までしておこうと、いつもは瀬田川を南下するところを、久しぶりに艇首を北に向けました。今回はその日のレポートです。

7月28日(金)晴れ
早朝の犬の散歩で、いつも一緒に行く妻とささいなことでいさかいをした。早朝ランニングをさぼっている罪悪感もあって、「ボート漕いでくる」と家を出る。古川さんと8月1日に堅田までの遠漕を約束してもらったので、「今日は琵琶湖に出てみよう」と車を運転しながら思う。艇庫ホワイトボードに、「中井 1× 浜大津 7:45〜」と書いて出艇※2

もう日差しは十分強いが、近江大橋をくぐってしばらくいってもまだまだ湖面は静かだ。浜大津沖でUターンするつもりで先に進む。ときどきモーターボートは通るものの、波はそれほど気にならない。ところが、浜大津を過ぎるあたりで、波が出だした。西風が吹いてきたのだ。波を避けるために進路を西岸に向ける(地図a)。波に直角にすると少々の波でも比較的安定して漕げる。予定通り波が小さくなってきた。そうすると欲が出てきて、艇首を南に向けるところを、北に向けてしまった(地図b)。それでも、まだ引き返す気ではいたのだが、湖面はかなり凪いできた。

 こうなると「桑野まで行こうかな」と思い始めた。古川さんのレポートにあったように、短漕30本で行くことにした。近江大橋はとうに霞み、ノッポのプリンスホテルも遠くになってきた。どうも背後に琵琶湖大橋が見えてきたみたいだ。ちょっと感激していた。短漕にも力が入る。そのうち、右手遠くに何やら見えてきた。「浮御堂?」と一瞬思ったが、近づくにつれ、巨大できわめて無愛想な建造物だということがわかった。琵琶湖の水質を測っている水質定点観測施設らしい。前方に、堅田沖の「えり※3」があり、遠回りになることは覚悟の上、確認しにいくことにした※4(地図c)。

しばし短漕は休憩だ。「えり」を回り、再び琵琶湖大橋に向かう。右手岸沿いに、今度は本物の「浮御堂」があった。琵琶湖大橋が大きくなってきた。そういえば高校のボート部の夏の遠漕で、琵琶湖大橋北の真野浜までスイカを積んで来たなぁ。かれこれ30年以上前のことだ※5。琵琶湖大橋手前にもうひとつ「えり」があって、その沖を通りながら最後の短漕を入れてとうとう琵琶湖大橋をくぐった。

30本では着かなかった。40本でも着かなかった。50本目でようやくくぐれた。琵琶湖大橋は、近江大橋や瀬田川の橋とは比べものにならないくらい高い。橋脚の台は四角で、水流の抵抗は考えてないみたい(地図d)。

 ようやくUターン。桑野にあげさせてもらおう。実は、事前に古川さんの、「競漕用ボートの会社だから当たり前だが、うちには立派な船台がある」とのレポートを読んでいた※6。そこで、岸沿いにいくことにした。しかし、すぐに「えり」に進路を阻まれた。しかたなく、もう一度「えり」にそって沖に出て、「えり」の先端を回り、再び、岸に向かった。「えり」の先端を回る時気づいたのだが、こんなところでも意外と流れている。帰りは早いぞ※7。「浮御堂」を湖面から見上げた。たしか、古川さんは「会社は浮御堂の近く」と言っておられたので、どちらにしてもかなり近くまで来ているはず。

 しかし、見つからなかった。多分、湖岸ではないのだろう。瀬田ローみたいに水路の奥にあるのだろう。湖岸で釣りをしている若者を見つけたので聞いてみようとも思った。しかし、「知ってるはずないわな」と、思い直してあきらめた。

 「しかたない。帰るか。ま、帰れるやろ。流れてるし」と気持ちを入れ替えて岸から離れようとすると、風と波が出てきた。しかも、なんと、左腕がつってきたのだ。「朝食なし、水分補給なし」の影響だ。相当量の汗をかいたので体内のミネラルバランスが狂い、筋肉の物理疲労以上の疲労が出ているに違いない。しかし、いまさらどうのこうの仕方のないこと。さあ、どうするか。岸を見ると、松林の浜だ。あすこなら上げられる。

 迷わず上げた。影でいっぷく。疲労回復するまで休もう。ただ、回復の保証は何もなかった。なにせ、水分なし。金なし。通信手段なし。見ると、すぐ隣がグランド。おじさんがゴルフのクラブを振っている。今度は聞いてみた。「この辺に、桑野造船ってありませんか。」「あの青い屋根です。そこが水路で、その水路の向こうです。」つまり、目の前だった。ああ、ありがたい。  汗にまみれた、真っ黒クロスケが裸足で行くと、尚子さんがこころよく迎えてくれた。キティちゃんのつっかけを貸してくれた。足の小さい私にはちょうどよい大きさだ。桃色だった。うれしかった※8

 「その船台からあげさせてもらうわ」「うん、そうしぃ。社長も多分そうしてはるはずや。」 多分?って社員なのに、知らないの、と思いながら松林の浜に艇を取りに行く。桃色のキティちゃんを履いて。途中水路の「船台」をあらためて見ると、かまぼこ板を一回り大きくしただけのような青色の「板切れ」が浮かんでいた。1m四方くらいだ。古川さんのレポートに書いていたように、本気の船台を想像していたので、やや不安だった。

 松林の浜から再び艇を浮かべ、オールを張れば一杯いっぱいの幅の水路※9を入っていって船台に到着。ところが、ふつうに上げようとすると、滑って沈。ここまできて沈か。尚子さんが来る。「手伝って。一人では上げられそうにない。滑ってはまった※10」「うん、そやろ。」※11見てたんかい!持ってもらってあげようとしても、再び沈。※12もっぺん沈かョ!船台が悪いのか。キティちゃんが悪いのか。はたまた、船台とキティちゃんの相性の問題か。しかし、さすがにこの辺は、はまっても臭くない。ヨシの浄化の効果かな。

 事務所でかけつけ3杯のお茶をもらい、トマトを丸かじりし、生き返る。さすが、古川さんの会社だ。トマトもあるし、事務所はスッキリしている。空いた机の上にはパソコン以外は置いてない。岡本さんという(名前を覚えた)、尚子さんの他にもう一人いる事務の方が古川さんに電話して、「社長と一緒に食事を」と言ってくださった※13。ズボンも服も貸して下さった。尚子さんといい、岡本さんといい、こんなヌレねずみ男を温かく迎えて下さって、本当に社員教育が行き届いていると感激した。

 古川さんにお昼をごちそうになり、すこし休ませてもらい、体力・気力が充実してきた。昼間なのにもかかわらず、風はゆるく、湖面も静かそうなので、すぐにでも出発できそうな気分になってきた。古川さんが目視と地図で、進路を教えて下さった。「あれが草津川河口や。あそこを目指したら最短距離や。または、先に(風力発電の)烏丸半島に渡るのもよい。」

 ところで、桑野造船に着いたのは多分10:30くらい。往路2時間半くらいは漕いだか。あとで地図で見ると、大きく西岸寄りを通って琵琶湖大橋まで行っているので20km弱は漕いでいると思う。

〜復路編〜

13:30頃 桑野造船出発 2階事務所の窓から古川社長と岡本女史がお見送り 尚子さんにかついでもらって、おそるおそる青い船台から艇を浮かべ、天神川からいざ琵琶湖へ。もちろん、キティちゃんは丁重にお返しした。

 古川さんのアドバイスにしたがい、「最短距離、草津川河口」を目指すも、はやくも「えり」に進路をふさがれる。天神川からの進路がやや西を向きすぎていたのだろう。この「えり」は往路では沖を通過したはずだ。出鼻をくじかれてしまった。進路を大きく東に変え、「えり」の先端を迂回し、ようやく目的の進路にはいる(地図e)。

 ところがすぐに、草津川河口の突端を見失う。目が悪いのと、もともと方向音痴ときている。草津川河口はあきらめて、堅田を正面(後方)に見据えて突き進むことにした。恐怖を感じるほどの波ではないが、往路後半では経験しなかった波の中を進む。途中相変わらず水上スキーなどのプレジャーボートが行き来する。閉口しながらも漕いでいると、右後方に草津川河口とおぼしき地形を確認。確かに「えり」もありそうだ。ただ、進路は「えり」にじゃまされない十分沖を通っている。

 そのうちやや波が小さくなってきた。往路と同じように、短漕を入れることにする。しかし、疲労のためか30本が体力と精神がもたない。20本、15本にすることにした。古川さんが馬のはなむけに下さったペットボトルの水を飲む。波の水面でペットボトルの水を飲むのも、なかなか緊張するものです。すぐ左に砂利採取船、遠く左に唐崎沖定点観測施設を見る。順調。順調。このまま行こう。

 (地図f)しかし…、なんとこのあたりでまた腕がつってきた。うーんよくない。左も右もつってきた。上腕二頭筋下部だ。完全にけいれんしてしまうとおだぶつなので、漕ぐのをやめて浮かんだり、動きの範囲を狭めて漕ぐことにする。そのうちに今度は太股がつってきた。ハムストリングス。究極は腹筋。腹直筋もつるのです。筋肉の名前はある程度知ってるのです。そんな知識は、ここではどうでもよろしい。浮かんでるだけでも、そのうち流れるか。しかし、やや波が大きくなってきた。  長距離ランニングでは足だけでなく、全身の筋肉がけいれんすることは何度も経験しているが、ここは岸から遠い湖上で、しかもスカル。手を離したら転覆だ。体中がつってるのだから、落水したら、艇をつかめずに沈むか。エネルギー補給は大切です。何よりも大切です。後悔先に立たず。

日差しがなくなったなと思っていたら、黒い雲が上空を覆っている。ポツリポツリと降ってきた。雷鳴が聞こえた。だだっ広い湖上の私は、避雷針になるのだろうか。妻よ子よ許せ。(無事帰還して聞いてみると、妻は保険金の計算をしていたらしい。正直でよろしい。)矢橋帰帆島北橋が、遠くだが、右に確認できたので、帰帆島の静かな水路に入って体の回復を待とうかとも考えたが、時間のロスだとやめにした。ぎこちない、外から見たらロボットのような動きのはずだが、それでも漕いで、少しでも前進することにする。

 先ほどからの雨が矢橋沖のここにきて、とうとう本気で降ってきた。夕立を通り越してスコールだ。体が急激に冷えてきた。筋肉のけいれんもごまかしがきかなくなってきた。足元に雨水がたまる。かなり不安。無謀を反省しても、いまさら遅いので、当然これきしのことであきらめずに、かなり気合いを入れる(しかなかった)。背筋を緊張させる(しかなかった。競漕用ボートというのは、体の動きは、きわめてきわめて制限される。どうしようもない)。

 それでも、腹筋のけいれんが一時的だがおさまる。今度こそ、決断して帰帆島南橋に雨宿りしに行こう。艇首を向けると、以外と早く橋の下に来られた。うまい具合に、隣にはバス釣りボートの兄ちゃん2人も雨宿りしている。ここなら、転覆しても大丈夫。なんぼなんでも助けてくれるはず。桑野造船でペットボトルの水とともに積んできた汗拭きタオルで水を出す。それでも少しでも体をひねると、いまだにどこかの筋肉が硬直する(地図g)※14

 雨が止んできた。近江大橋は目の前だ。いざ漕がん。神は私を見捨てなかった!近江大橋をくぐる。ゴールはまもなくだ。インタハイなので大きな発艇船台が設置されている。再び雨が降ってきたかと思うと、あっという間にまたスコールになった。さきほどの雲が移動してきたのかも知れない。漕艇場山口忠博さんの「これからコースは荒れます。すぐ上陸しなさい」との放送が聞こえる。しかし、私はもう大丈夫。

 無事帰還。船台に付けて上がろうとすると、ここでも足の指がつる。しかしもう大丈夫。先に上がっていた高校生に手伝ってもらう。それにしても、地球をたたきつけるようなとんでもない雨だ。今度は雷も激しい※15

 桑野ではさぞかし私を心配してくれているだろう(と思って、)「帰ってきました。途中大雨に遭いました」と電話。尚子さん「あっそう、ごくろうさん。こっちは晴れてるわ」 シャワーをあびた。雨が止んだ。艇を片づけた。時計を見たら16:30だった。たぶん、たっぷり2時間は漕いでいただろう。

 今回は、距離はいつも漕いでいる南郷往復を2セットくらいだから、距離としてはたいした遠漕ではないはずだ。ただ、湖上というのは、しかもスカルでの湖上というのは、ひとりで岸から離れるという点で、精神のプレッシャーが格段に違う。貴重な体験をした。

注釈

  1. 古川氏は艇庫〜堅田は17kmで、南郷往復とほぼ同じだと主張されるが、あとで、地図ではかると、どうみても17kmはない。約12kmだ。艇庫〜南郷往復も、あらためて地図で見ると、12kmと少しだ。いつも漕いでいるのに、なぜか、南郷までの距離を把握していないのだが、艇庫〜堅田は南郷往復とほぼ同じというのは間違いなさそうだ。
  2. この日の朝のいきさつから、湖上に出るにはあまりに体と心の準備が不足していた。朝食抜き、水分補給ペットボトルなし。湖上で気づいたが、当然救命胴衣も必要。ただ、スカルは荷物を置くにはあまりに狭いのです。
  3. 琵琶湖独特の定置網。興味がある人はウィキペディアででも調べて下さい。
  4. これは、雄琴沖定点観測施設。琵琶湖水質定点観測施設は、これより南にもひとつあって、あとで地図を見ると、そっちの方は唐崎沖定点観測施設とある。今回、この唐崎沖施設よりはかなり西寄りの進路をとったので、往路ではこの施設が左手遠くに見えていた。20年ほど前、青木博さんとダブルスカルを漕いでいた頃、ときどきこの付近まで漕いでいた。青木博さんは川よりも琵琶湖の方が好きだった。(過去形で書いてるので、誤解のないようにつけ加えておくと、青木博さんは最近姿を見ないだけで健在です。今回キティちゃんのゴム草履を貸して下さった、桑野造船事務・青木尚子さんの夫君です。海外出張で、あまり日本にいないとのこと。)
  5. 当時はこんなことも部員だけで平気でやっていた。顧問の先生も知っていたろうに、別にあれこれ制限を加えることもされなかった。昔を振り返ると、昔は何でも輝いて見えるものだ。あたりま えだが、今では許されないはずだ。
  6. 後で読み返すと、「立派な」とは書いてなかった。ただ「ボート乗艇桟橋がある」とだけ書いてあった。
  7. この時点では、確固たる帰途の計画があったわけではない。
  8. 青木尚子さんは柄は小さいが、往年の鉄砲玉型オアズウーマン。全日本や国体で何度も優勝し、さらに子ギャル時代は世界ジュニアにも出場した(ボート選手権です。念のため)。彼女のグループが京都国体に出場をきめたとき、私がたまたま艇庫にいたからだと思うが、私が監督に指名された。実体は、監督とは名ばかりの送迎運転手だった。しかし、何でも人の世話はしておくものだ。今日はちゃんと恩返しをしてもらえた。  彼女は、昼間は桑野造船の事務として働くかたわら、夜だと思うが(当たり前)、スナックを経営しているらしい。店の名前はクラブナオコというらしい。私は行ったことがないが、桑野と瀬田ローのいきつけの店なのだろう。  そういえば、桑野造船に、「潤子号」というフォークリフトが動いていた。古川社長には彼女が100人以上いるらしいので、思い入れの強い子の一人なのだろう。しかし、フォークリフトの名前か…。
  9. 天神川という。
  10. 関西ことば「水に落ちた」の意
  11. 「見てたのか」
  12. 「もう一度」
  13. 社員の皆さんは大津給食の弁当を頼んでいるらしいが、社長の分は「頼むのを忘れた」と言っていた。
  14. もっとも実際は落水・転覆した競漕用ボートを、普通のモーターボートで、湖上で助けるというのは現実的でない。上陸可能な岸に引っ張ってもらうのがせいぜいだろう。落水しても、近くにモーターボートがいれば、人道主義的な見地から多分助けてもらえるだろうが、とにかくあとがおそろしく面倒になるに違いない。当たり前のことだが、周到な安全対策をして出航すべきである。
  15. それにしても、矢橋沖のスコールとの遭遇で、幸いだったのは、雷がなかったことと、風波がたたなかったことだ。「オウム」にも「摂理」にも入ってないが、神はちゃんと助けてくれた。 (新聞の報じるところによると、「摂理」も不思議なカルト集団らしい)

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