瀬田RCは企業クラブを越えられるか

このシリーズの題名であるトレーニングの常識と非常識からは外れるテーマを選びました。今回のテーマはスポーツクラブのあり方とかスポーツをする人達の認識のあり方について我国の常識に挑戦してみようと思いました。

これらのことは将来どのような形で瀬田RCが社会からの役割期待に応えようとするのかを考える機会にしていただけると思います。私はスポーツ社会学のような学問を修めた訳ではありませんが長い間ひたすらにボートを漕いできたなかから観て、感じて、考えたことです。いわば、たたきあげの哲学ともいうべきなのでしょうか。

先日、高知県の橋本知事が「国体開催県として優勝は目指さない」の発言をしたことから国体論議が賑わっています。私の第6話「ナンセンス国体」を読んだ協会の偉い人から「今後、貴方にはボート協会の公職はしてもらえなくなるかもしれない」とおしかりを受けたこともありました。しかし、現在の議論を眺めていると私の非常識発言は既に常識化の方向に進みはじめていそうです。不動不変のように思われる常識もその程度なのです。

世界ジュニア選手権に7月末からブルガリアに出かけますので次回は旧共産国のボート事情にヒントを得て、面白いテーマを設定できないものかと思案中です。

アマチュアスポーツの定義とプロとの境目がだんだん怪しくなってアマチュア規定を削除する競技団体が多い。つまり、いままでアマ選手といっても建前だけで実体を正確に反映していなかったり、この規定の非現実性をみんなが感じているからである。大昔の英国では試合に備えてトレーニングすることすらアマ違反だったらしいからアマへの考え方もずいぶん変化してきている訳だ。選手も指導者もスポーツで何らかの収入を得ても正当な代価であるならそのスポーツ活動の価値は低くなることはない。かえって、出す方も受け取る方もある種の緊張感が生まれて良い結果を生むことになる。スポーツにかかわってお金のことを言うのは良くないという漠然としたアレルギーは捨てるべきである。今は現実と建前の乖離を埋める努力が求められている。スポーツを企業の宣伝とか就職の手段とかのスポーツ以外のことに利用しようとすることの方がスポーツをゆがめる問題をはらんでいる。スポーツへの哲学・思想の中味を問うべきであり、スポーツをやること自体が目的であるべきである。

例としては適切ではないかもしれないが、我国らしいファジーな契約と建前でやってきた企業スポーツ(実業団)の話をしたい。企業が従業員の同好会クラブではなく、チャンピオンスポーツクラブを持つのは意外と日本独自のシステムなのである。貧しかった昔から現在も企業に支えられた実業団チームが日本のトップレベルを支えてきた。しかし、多くの場合は企業と選手の間に明確なスポーツ選手活動に関する契約は存在しない。選手は従業員としての雇用契約を結び建前として普通の社員として扱われ給与が支払われる。スポーツ活動はあくまで勤務外のアマ活動ということになっている。現実には有名選手がスカウトされ会社に入ってくる。本音はスポーツの能力を期待されての入社であることは明白である。しかしスポーツ選手としての契約は存在しない。会社はスポーツ選手としては高くはないが普通の給与を払い、練習や試合には時間と経費の面倒をみる。日常は一般従業員と同じように仕事をするということになっているから、試合に負けたと言って給与が下がったり、首になることはない。実像は世界一恵まれた(甘ったれた)プロ選手なのであるが自覚はアマのままである。

かたや企業の本音はそのクラブの維持が従業員の帰属意識や社威宣揚とか宣伝にかなりの比重が置かれていて、そのスポーツを純粋に支援、発展しようと思っているのかどうか疑わしい行動の例が多い。建前ばかりで運営してきているのは日本の実業団スポーツの最大の特徴といえる、業績が悪くなればそのスポーツへの影響なんてお構いなしに縮小、解散は茶飯事である。もともと企業スポーツ活動経費は本業から見れば穴費であり、株主の発言が大きくなりつつある現在、実業団スポーツ存続は無駄と判断される恐れがある。環境は厳しさを増すとみていいだろう。いっそうのこと、日本中の実業団の選手に会社とはっきりした選手契約を結びなおす勇気を求めたい(1部の競技はやっている)。企業の方は社会と株主の批判に耐えられるスポーツ支援への理念の再構築を強要されるときが近づいていると思う。ここまでボロクソに書けば誰かが反論してくれると楽しみにしている。

方や地域スポーツクラブの実態はどうだろうか。人材、活動レベル、資金的にも実業団クラブに比べて誠に悲惨ともいうべき低いレベルにある。次代の日本のスポーツを実業団に代わって担うなんてとても今は無理である。ならばこれから我国のチャンピオンスポーツはだれがどのようにして支えるのか?

瀬田RCはその一端を担えることができるのだろうか。無理をしなくてもおれ達だけの楽しいボートを漕いでいればいいという考えもあろう。しかし、自分達の楽しみのみを追求する集団は極めて社会的存在価値は低い。スポーツクラブはチャンピオンを育ててこそ1人前の社会構成団体認知が得られるというのが持論である。なぜなら必要な資金が確保でき、正しい指導ができ、人を育てられる社会組織としての機能を持っている証明となる。逆に強くないということはこれらのこともダメな場合が多いからである。

「企業クラブ=お金持ち=しっかりした組織=チャンピオン輩出」で、「地域クラブ=貧しい=まあまあ仲良し集団=楽しいが勝てない」の図式が出来ている。世の中みんなもこの様なイメージでいるように思えてならない。我々もそれで満足していないだろうか。集団としてせっかくみんなが集まってクラブを作ったからにはこのままで満足するのではなくどうせやるなら社会的価値を高める努力をするべきと考える。前述の二つのタイプのクラブが発展するためにそれぞれが欠点を補うことが求められているのではないかと次のように思っている。

企業クラブの解放
従業員以外のメンバーを受け入れ、オープン化をすることで社会性を高める。スポンサーからの独立。三菱養和会が最も可能性が有りそう。
地域クラブの自立
経済的な自立と人材の確保に努めて活動の質を高める。スポンサーの確保。瀬田RCが最も近い位置にいる。

いま、スポーツ界も世の中と一緒にゆれている。この時にこそ純粋にスポーツの哲学思想を持って瀬田RCは進むべきである。一人前の団体認知を得るチャンスと考える。

以上、これらの環境作りのためにも直ぐに改めるべきことを最後に提案としてあげてみる。選手登録についてよく、国体とか全日本で競技団体登録名に○○(株)ボート部というのをよく見かける。お前達のボート部は株式会社か!と言いたい。スポンサー名とクラブ名と区別が分かってない者が多い。それだけはヤメロ!Jリーグのようにスポンサーである企業名を使わせないことも意識改革への一案であろう。また、瀬田RCのメンバーが国体に出場した場合に選手の所属欄が△△大学とか××会社とか主婦になっている。学校は勉強をしに通っているところ、会社は生活の糧を得ているところ、我々は瀬田RCで漕いでいるのだから所属は瀬田RCにしてほしい。所属長に休暇願いを申請するためには必要なのだなんて本質ではないピンボケの回答もあった。スポーツは個人の意志と責任でやるのが基本だとすれば団体登録は廃止して個人登録1本にしてはどうだろうか。そうなるとクラブとしての努力を発揚できる場がなくなったり、クラブへの帰属意識が薄れることを恐れて反発が予想される。(特に学校スポーツ)しかし、そのレベルまでおおらかで何者にも囚われないスポーツ支援の意識が生まれて来ないことには我国のスポーツは本物にはなれないと考えている。

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