スポーツマンの所属-その人のスポーツ観のあらわれ-

人の肩書きや所属の選び方は、その時代の仕組み、その人の価値観やよりどころを反映している。それは社会のなかの一員として生きていくうえで最も重要な作業でもある。

スポーツ界をとってみても同じである。所属選びから、その人のスポーツ観が伝わってくるようで面白い。

私は高校時代からボート競技を始め、実業団、大学、ナショナルチーム、地域クラブにおいて、選手と指導者を務めてきた。この体験もとにスポーツマンの所属について考えてみた。

わが国の近代スポーツは大学から始まった。それは大学体育会の運動部に象徴される。すこしの解説を加えるなら、大学OBと現役選手が一体となり、大学の名誉と運動部の伝統を守ることに活動の主眼がある。そして大学の枠のなかで、運動部の活動のみならず、学問や日常的な生活交流までを包含している。運動部の活動はメンバーの帰属心や士気の高揚につながる。ここではどの大学のどの運動部に所属しているかが重要なのであり、選手のアーソナリテイは二次的であって外からは見えにくい。

その後、大学の役割がそっくり企業に置き換わった実業団スポーツが誕生し、わが国の競技スポーツの頂点を支え続けている。実業団スポーツは世界的には意外にも少数派で、日本独特のチーム形態といえる。

三十年ほど前に私は実業団チームのメンバーとして世界選手権に出場したことがあった。当然、チーム全員が同じ会社で働き、チーム名もスポンサー名も、すべて会社名がついていた。遠征先で外国の仲間から「なぜ」を連発されたが、説明に窮し納得させることができなかった。この質問は私に新鮮なショックを与えた。

これらふたつのチーム形態は選手の個人主張が強くなく、社会も豊かでもなかった時代は有効かつ、効率的であった。しかし、時代が進んだいま、違和感が増大して、構成員数は減少の方向にある。

企業にとって会社資源を実業団スポーツに注ぐ合理的説明も難しくなっている。また、大学では組織に縛られるのを好まない若者がふえた。さらに、プロのスポーツ選手やコーチが出現して競技のレベルが飛躍的に向上している。かってのような家族的、閉鎖的環境のなかで勝ことが難しくなった結果、トップを目指す選手が新しい所属形態を求めて動き出した。自分の責任と負担で自分のためにスポーツをやるという本来の姿に近づきつつあるのは喜ばしい。

いささか我田引水ではあるが、私たちが活動している地域クラブの瀬田漕艇クラブは会員増加の対応におわれている。学校体育の場でも技術指導だけではなくスポーツとのかかわり方も教えだした聞き、期待している。

国体の季節がやってきた。二年前に監督で出場した折、私の選手団名簿の欄には無職と記されていた。怒りを超えて笑ってしまった。人の所属は学校か、会社だという発想はもう古いのではないか。何をどこでやっているかが大切で、所属とは時と場合によって表示が変って当然と思う。

(後記)

スポーツ特に私たちが関係するボート競技では団体数や選手数がどんどん減少している。なのに有効な対策が打ち出せななかったり、将来への展望ビジョンが示せない指導者は即刻退場して欲しい。例えば協会の役員でいることに価値を覚えてる時代ではないのにそんな輩が依然と多いのは嘆かわしい。

ボートというスポーツをより発展させて人々にどれだけ生きる喜びを与えることができるのか。そのための何が出来るのかが求められている。

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この記事は、2001-7-30に京都新聞に掲載されました。