勝利への要因−トレーニングとはなんだろう−

五月のゴールデンウイークに開催された恒例のレガッタに出漕した。58歳の私は若者相手に予想どおりの大敗を喫した。大負けを承知で漕いだのは大会への冒とく行為なのか、大いなるエンジョイか、もしかしたらピエロなのかも知れない。何れなのか未だに結論がだせないままでいた。

大会にはオーストラリアから女子高校生が参加した。練習の合間に京都や広島への小旅行、ホームステイ、高校訪問、自転車を連なれて近くを散策したり実に活動的であった。では彼女達は日本に観光に来て、そのついでにレガッタに参加したのか。いや、同行の校長先生の話によれば伝統的な英国風のスポーツ教育を最重要視しているとかで、今大会も好成績を目標にしていると言っていた。2名のプロ(専任)コーチが指導にあたり、きめ細かい指示をだしていた。かたや我国の高校選手は対照的に大会に備えてストイックな時間を過すが、プロの指導者が付いている訳ではない。この違いは何なのか。

その後、私は北海道と中国地方に講義と選手指導の旅にでた。各地での共通的な質問を挙げると、体の小さい選手が大きい選手に勝てる方法はないか。私の何処を直せばよいのか。疲れてもやる気を維持するには、等々の欠点克服の手法を尋ねる質問ばかりであった。さらにコーチが居なくてもできる効果的練習はないかとの質問には、それに答えることは自己否定になりますからと笑ってごまかすしかなかった。どうしてこうなのか、いつものことながら暗い気持ちになってしまう。スポーツは得意な能力部分を誰よりも高めることであって、欠点克服練習をいくらやっても結果は知れている。無いもの尽くしのなかで一途に困難に立ち向かい、道を求めると言う伝統的価値観が我国のスポーツ界にはまだ脈々と生きている。もっと環境を整えるためにお金を使い、楽しんではどうなのかといつも提案することにしている。

訓練によって絶対に種を越えることはできない。私達は何処までも人間であっ て馬のようなスタミナは獲得できない。次に性を越えることも極めて困難だから スポーツでは男女の種目に分けて競技する。最後に個の差を努力で越えられるか どうかである。これはスポーツ指導の根幹に関わる問題だが指導者はあまり考え たくないことでもある。結論的には個人的な資質の差を越えることもかなり難し い。身長、体重や年齢等の単純な個人差でさえ種目によっては決定的な勝負の因 子であることは誰もが知っている。私は決して努力を否定しているのではない。 あとに残された少しの改善幅を鍛えるのであるから現実と個性を見据えた目標設 定と精密にコントロールされた指導が必要なのである。それには創造的で楽しく 心が躍っている雰囲気のなかでのトレーニングが大切と思う。そうなれば個の差 をドーピング(薬剤使用)でカバーしようなんて馬鹿げた発想もなくなるだろう。

そんなことを考えているうちに私のレガッタ出漕も、オーストラリア高校生の 練習ぶりにも肯定的に思えるようになってきた。

この文書の情報

この記事は、2002-5-31に京都新聞に掲載されました。